歌声のない歌

短歌 俳句など

あちこちで詠んだ短歌・俳句、読んだ詩などをここに集めている。
自分でもどこに書いたか判らなくなりそうで、その記録のためでもある。
作者名の無いものは謫仙自作。

 

      

大江戸しあわせ指南  高山青  北岳(白峰三山)   お茶屋  鎌倉  江の島   空中庭園  隼人  大石太  安立スハル  鳩啼時計  垓下の歌   熊本 本妙寺  炎天寺と小林一茶  李清照  雲南憧憬  椿  黄山  楓橋夜泊  夜雨寄北  西安  北京  槍ヶ岳  台東  蘭嶼  尾瀬  石川啄木  山里を想う  藤あや子  サリン事件  彼岸花  擬製

 

雑俳

大江戸しあわせ指南

 

大江戸しあわせ指南  身の丈に合わせて生きる
石川英輔   小学館   2012.8
この本をFBで紹介したときのやりとり。

 

身の丈に合わせて生きるしあわせは 新年を見る心養う  謫仙

 

身の丈を思わぬ犬に憂いなし              某女

 

おのが身を神と思うか申の年 憂い払いて枝に安らぐ   謫仙

 

身の丈もスカート丈も丈は丈 己がサイズの枝を探さん  某女

 

身の丈を大きくせんとスカートの 丈の短さ競う娘ら    謫仙

 

大江戸しあわせ指南

高山青

 

雨は去る金斗の雲なく動かざる 里は見はてず人ぞ恋しき   謫仙

 

    高山青
♪ ナイルワー ナイヤヤナヘー
  高山青潤水藍
  阿里山的姑娘美如水呀
  阿里山的少年壮如山
  高山長青
  潤水長藍
  姑娘和那少年永不分呀
  碧水常囲着青山転
(山地国語歌曲より)

 

 

    阿里山の娘
♪ナルワンド イヤナヤ ホーハイヤ 
 ナルワンド イヤナヤ オハイヤ 
 オイナルワンド イヤナヤ ホー
 リムイ リムイ ラー リムイ スーリムイクンナ 
 ラホイダー スイパラ イラホイ

 

 ナルワンド イヤナヤ ホーイヤホー 
 ナルワンド イヤナヤ オハイヤ 
 オイナルワンド イヤナヤ ホー

 

 月が出ましたよ 月が出ましたよ
 妹の月の眉 ネエ妹さん
(山地国語歌曲より)

 

2021.1.25.jpg

 

1986年、台湾 阿里山の思い出である。
高山青1 阿里山
高山青2 祝山・石猴

北岳(白峰三山)1992年

 

広河原 夜明け待つ人声満ちて三々五々に北岳を見る

 

あの白く険しい山が甲斐駒と指さす人のザックは重し

 

ほの白く北岳草の開くとき 花摘む乙女場所をたがえる

 

岸削る大門沢の咆吼に山も震える「道はまだある」

 

 

馬蘭山歌抜粋
永遠的青山無際 一重又一重
健美的馬蘭姑娘 蓮歩軽如風

 

歌声のない歌


1992年、雨続きの夏であった。
八月半ば、雨の切れ目を狙ったように、一日目と二日目は晴れた。
わたしは探花登山会の会長と二人で、白峰三山(しらねさんざん)縦走を計画した。北岳(3193)・中白根岳(3055)・間ノ岳(3189あいのだけ)・西農鳥岳(3051)・農鳥岳(3026)である。
なお、三山は北岳・間ノ岳・農鳥岳を指す。
   北岳(白峰三山)

お茶屋

 

ケータイを見つめて恋はままならず鴨の川原に願う七夕  謫仙

 

歌声のない歌


2012年、先斗町の思い出である。
  お茶屋

鎌倉

 

かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
        美男におはす 夏木立かな        与謝野晶子

 

歌あはれ その人あはれ 実朝忌            裸馬

江の島

 

沖つ風 吹けばまたゝく 蝋の灯に 志づく散るなり 江の島の洞

 


江の島の第一岩屋の入り口にある。与謝野晶子の歌である。
   江の島

空中庭園

 

惚れた晴れたのおふたりばかり とてもひとりじゃ行きにくい

 


大阪には空中庭園があるという。
「空中庭園」という言葉には魔力を感じる。
     大阪空中庭園

隼人

 

一瞬に人を殺めし罪の手とうた詠むペンを持つ手は同じ


母さんに「直ぐ帰るから待ってて」と告げて渡米し三十年経ちぬ


十年の歳月を経て初めての母の便りに胸がつまりぬ


獄に読む老母の文こそ哀しけれ父の介護に疲れ果てしと


娑婆にては少数民族(マイノリティ)の黒人が大多数民族(マジョリティ)となるアメリカン刑務所(プリズン)


美化してはならぬ吾が身の現状を戒めながら作歌に励む

 


歌集 隼人 の歌である。
アメリカの刑務所に入っている事は判っていたが、詳しいことは知らなかった。04年にこの歌集を発行した。これを読んである程度のことが判った。
殺人による終身刑で85年から入所、すでに20年以上たつ。何歳であろうか。
その歌は父母を思い、娘を思い、日本を懐かしむ。その歌のファンは多い。

 大石 太

 

元専務 公園デビューの晴姿

 


ホームレス俳人、大石太の句である。自称鹿児島出身という。
句は、バブルの時に毎晩豪遊していた人が、バブルがはじけて、財を失い家族を失いホームレスになってしまった。ようやく他のホームレスのいる公園に顔を出せるようになった一瞬。

安立スハル

 

金にては幸福はもたらされぬといふならば その金をここに差し出したまへ

 


作者は安立(あんりゅう)スハル、珍しい名だが本名である。
1923−2006
幸福は金では買えないという。しかし、不幸の多くは金で解決する。幸福は金で買えることがほとんどなのである。
金で買えない幸福も例外的にある。しかしそれを一般的のごとく「幸福は金では買えない。金を求めるな」と金持ちに言われると反発してしまう。  

 鳩啼時計
鳩啼時計今啼きぬ  (はとなきどけい いまなきぬ)
冬の夜ふけの十一時
凩さむき戸外には  (こがらしさむき そともには)
利鎌のごとき月冴えて(とがまのごとき つきさえて)


過ぎし日君と一つづつ
銀座の街に購へる  (ぎんざのまちに あがなえる)
鳩啼時計いま啼けば
うれいは深しわが心


昔恋しきシャンデリア
運命は恋を割きたれど(さだめはこいを さきたれど)
心は常に君と住む
鳩啼時計かうかうと
冬の夜空を呼びかわす

 


小松左京に鳩啼時計という短編がある。
その中に西条八十のこんな詩がある。一部かな付きなのだが、読みにくいので右にまとめた。
鳩時計の音を「かうかうと呼びかわす」と表現したのにも驚く。
冬の夜ふけの十一時では、太陽は地球の裏側にある。利鎌のごとき月は見えるはずがない、なんてことも思っていた。
ほんとうに西条八十はこんな詩を作ったか。SFなので、小松左京が作った可能性もゼロではない。 

垓下の歌

 

力 山を抜き 気 世を蓋う
時 利あらず 騅(すい) 逝かず
騅 逝かざるを 奈何(いか)にせん
虞よ虞よ 若(なんじ)を奈何(いか)にせん


力拔山兮氣蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何

 


 騅 愛馬の名
漢の五年(前203)項羽は劉邦と天下を二分する講和をした。
項羽が国に引き上げる途中、垓下まで来たとき、またもや劉邦の裏切りにあって、漢軍に囲まれてしまう。項羽軍は戦いに敗れ、兵は少なく兵糧も尽きていた。
ある夜、楚軍を囲む漢軍から楚の歌が聞こえてきた。四面から楚の歌声が響いたのである。ついに残った兵も望郷の念にかられて脱走し、兵は残り少なくなった。わずか八百余りで脱走を試みたもののついに自決。項羽三十一歳であった。
項羽は脱走の前まで愛妾虞美人を伴っていたが、脱走の前に虞美人は自決している。その夜、項羽が愛人虞美人に送った詩が垓下の歌である。虞美人の墓には虞美人草(ひなげし)が咲いたという。
   四面楚歌

熊本 本妙寺

 

成り金が 建てた観音 像拝む

 


熊本の本妙寺に行った。多くの塔頭があり、その中の延寿院にあった文。
川柳であろうか。意味は、
成金が建てた観音像を、人々が拝む。 であろう。それとも、
誰かが建てた観音像を、成金が拝む。 であろうか。

炎天寺と小林一茶

 

日洩れては急ぐ落葉や炎天寺   石田波郷


施餓鬼会の背に極楽の余り風   石鍋静穂


蝉なくや六月村の炎天寺      一茶


やせ蛙まけるな一茶是にあり    一茶


黄銀杏の一茶まつりの子にあまねし  吉本忠之


むら雨や六月村の炎天寺     一茶



一茶いてなんの力ぞやせ蛙    謫仙

 


竹の塚に一茶ゆかりの炎天寺がある。
住まいではなく、何度か訪問し発句したところ。それが伝わっていて、俳句の寺となっている。
紹介したのは、境内の石碑などに書かれた俳句。
謫仙自作はもちろん石碑はありません(^_^)。
一茶は生涯に二万句以上発句したという。
参考:  炎天寺と小林一茶(上)     炎天寺と小林一茶(下)  

李清照

 


 


李清照は北宋の終わりから南宋の始まりという動乱の時代の詞人である。
宋代ばかりでなく中国史を通じても傑出した女流詩人といわれる。
詞は五代のころから一流の文藝となり、宋代に栄え、元代には衰退した。故に宋詞に代表されるが、その中でも李清照詞は高い評価を得た。
上の詞を「如夢令」や「武陵春」と書いてあるが、正しくは詞牌といい、その下に小さく書き加えた「春晩」が題である。ただし、ほとんどは詞牌のみで題名は書かない。
詞は替え歌で、詞牌はその曲である。それゆえ詞牌のイメージと詞のイメージが合わないのが普通。
    参考:李清照

 

雲南憧憬

 

身を削る雨と戦う石群れて 天指す槍を研ぐ雨の音

 

空冷えて玉龍雪山風白し 思い出せない旅の数々

 

 


2度目の雲南旅行に行ってきた。
大理−麗江−昆明(石林)
この巨大なカルスト台地石林の石の群れは、雨に削られた自然の彫刻。美術館にはない迫力がある。
今回は玉龍雪山は見えなかった。旅の記録を書こうとして、忘れてしまったことの多いことに驚く。
   参考  たくせんの中国世界− 雲南憧憬

椿

 

白い花朝日を浴びて露おとし 赤い梅見て静かに開く

 


浅草の朝の椿です。
白さが印象的でした。寒いころに咲いているので目立ちます。
凛として…、というイメージの花です。

参考   大理の山茶(椿)

黄山

 

黄山の巌と和して聳え立つ老松の下我も歩めり


聳えたつ巌に和する松細く朝日の中に凛として立つ


幾千年人の見あげる雲の峰初日を浴びよ新たな年も


永遠的青山無際又一重須臾の間に識る生きている幸


大座する巌を照らす初日の出限りある身の道に輝け

 


01年暮れから02年初めにかけて、江南の旅行をしました。
思ったより寒かった記憶があります。
そして黄山は文字通りの絶景を見ることができました。

    参考  黄山 山水画の世界

 ★楓橋夜泊(ふうきょうやはく)

 

 


張継がこの詩を作った当時は夜半の鐘は禁止されていたという。間違えたのか、承知だったのか。
蛇足を付け加えれば、最初の四字は、「月落ち烏啼き」と読む。「月は烏啼に落ち」ではない。
近くに烏啼山という山があると聞いていた。烏啼山はこの詩によって名が付いたのであって、当時は別の名であったと。しかし、見渡してもそれらしき山は見当たらない。
   参考  憶江南2 寒山寺

夜雨寄北(やうきたによす)

 

 


この短い詩の中に「巴山夜雨」という言葉を二度も使っている。
付け加えると
北……日本でも言うが、妻のこと (限定しないという説もある)
寄……手紙を送る。現在でも、手紙の封筒の差出人は「謫仙寄」と書く。
巴山…四川省通江県にある山、長大な山脈らしい。わたしは巴の山と思っていたが、固有名詞のようだ。
夜雨…四川盆地はほとんど曇っていて、太陽が見えることが珍しいと言われている(蜀犬、日に吠ゆ)。また、巴山では夜になると決まったように雨が降るという。それを巴山夜雨という。
何……いつか
卻……さて 却と同じ字、話題を変えるときの「さて」
   参考  李商隠

西安

 

始皇帝玄奘楊環武則天一日三秋の想い出となれ

 

この旅を画りし友は春逝きて その声響く耳となる街

 

春尽きて鬼籍に入った友に似た 飛び交う声は熱き西安

 


陳舜臣さんが、日本の「一日千秋」に相当する言葉が、中国では「一日三秋」というと言っていました。
楊環はあの楊貴妃で、玄奘は西遊記で有名な三蔵法師です。
この旅行を初めに計画した人は、中国語が話せる人でした。その人が亡くなり、団体旅行の計画は流れ、わたしは会社の人と二人で行ってきました。
   参考:西安

北京

 

夏北京 喧噪の街陰ありて 鳴かぬ烏の声いかに聞く

 

紫禁城宮廷料理朱の柱 宮女の運ぶ卑酒(ビール)飲むわれ

 

わが友は三度を五元で賄いぬ 北京ビールは六元である

 

かくも広き天安門の広場にも 入り切れない悲しみがある

 

カメラ持つ万夫が当たる長城を 涼風一陣開城す

 

頤和園の長廊の絵は鮮やかに 西太后の夢の長さよ

 

点心を口にしながら話せない 中国語聞く老舎茶館

 

中華なる建物群れて雍和宮 み仏の前すべて如菩薩

 

地下鉄の切符を求める人窓口で競争入札する五六人

 


初めて北京へ行ったのは94年8月でした。面的と言われた軽バンタクシーが10キロ10元でした。
鳴かぬ烏:禅に「暗闇に鳴かぬ烏の声聞けば生まれる前の父母ぞ恋しき」とあります。当時はインターネットもなく、ケータイもなく、電話は公衆電話だけでした。今でも民主主義とはいえない国柄。当時の民衆は、口コミでも用心しなければいけない状況でした。
ビールは口へんに卑しい〔口卑〕酒と書きます。
当時、遼寧の大学にいた信友は、一ヶ月の食事代が150元でした。北京では北京ビールも水も六元でした。
地下鉄の切符を買う人は並ばずに、五六人が同時に切符代を持って窓口に手を入れています。この異様な買い方にびっくり、今は改善されたのでしょうか。早く買うには、金額が一目で判るお金を持つこと、だそうです。当時は5角でした

槍ヶ岳

 

幾千の常念にらむ鳥兜 我は一人で今挑むなり

 

靴を履くザックは満ちた 見上げれば山燃えあがり歩み始める

 

よじ登り槍の頂踏みしめる バンザイ三唱天下に響け

 

槍沢の霧を迎える岩桔梗 凍えるごとくさえる紫

 

空冷えてこの手の記憶新しき 小さな峰を雲外に見る

 


登山会も解散状態になり、この回の登山は単独である。
ヒエ平登山口から常念岳に登り、大天井岳・西岳・槍ヶ岳・大喰岳・中岳・をえて槍沢ぞいに上高地に下りた。
このコースは難しくはない。山小屋の数が多く、次の山小屋には半日で着く。もし天候が悪くなれば、そこで小屋に入ることもできるのだ。

 


常念小屋で夜明けに見た槍ヶ岳・大喰岳・中岳。いずれも三千メートルを超える。
槍ヶ岳は隣の大喰岳より79メートル高い。荷物を下に置いて槍に登った。40分の登攀。穂先だけなら意外に小さい。
   参考: 槍ヶ岳4 槍ヶ岳頂上

台東

 

紅梅の香りただよう海山寺 若き君住むゆえになつかし

 


台東はこの一首のみ。
テレビで、北山たけしが湯の町エレジーを歌っていた。そのとき初めて、その詞を全部読んだ。この一首は、その詞を下敷きにしている。

蘭嶼

 

蘭嶼(ランユィー)のホテルの前に人満ちて あの人この人語る日本語

 

檳榔を噛みつつ語る島人は 爪先広く島を踏みしむ

 

半農の水芋田にも雨落ちて山羊豚人鶏 雨やどりする

 

輝ける陽(ひ)の彫刻は波に濡れ タタラは戻る太刀魚三尾

 

ヤミ族の庭の物干し飛魚の開き干してる衣干してる

 

踊り手は黒髪長き年月の憂い喜び皮膚に刻まる

 

雅美族の夢の名残か頭髪舞 楽しみながら悲しんで見る

 

駆け落ちのできぬ小さな島ゆえに情人洞は仲人となる

 

太平の島の少女は声そろえ 手足そろえて黒き銃持つ

 


この島と台東は、わたしの半生の一場の夢かも知れない。島には三回旅行し、延べ10日ほど滞在した。
島人は日本語を話し、裸足の足は指が真っ直ぐにのび、男は檳榔で歯を赤くし、女は座くりで布を織り頭髪舞を踊る。背の低い家。放し飼いの家畜。タタラ(舟)。 

 

少女も徴兵訓練を受け、缶詰工場と言われたところは核廃棄物の貯蔵庫となり島人の生活を変える現実がある。
高貴な「風格ある社会」も変わるであろう。島の法則も適用できなくなる。その社会の崩壊寸前の姿を見たことになる。
   参考: たくせんの中国世界 蘭嶼

尾瀬

 

三夜三日遥かな夢の始まりは 北千住発零時零分

 

漣の寄せては返す金光花 風輝いてわれに名を告ぐ

 

幾重にも我に近づく金光花 風を知らせるひとつ名を知る

 

早乙女の唇集め紫に 染めて開いて田代のひかり

 


東武鉄道では、夏になると尾瀬夜行を走らせる。浅草発11時50分。北千住ではちょうど0時0分になる。
まだ暗いうちに会津高原につき、バスに乗り換える。バスは沼山峠まで行くが、わたしは御池でおりて、燧ヶ岳を登る。広沢田代にキンコウカが咲いていた。
 
 沢桔梗(さわぎきょう)
唇のような花びらの根元から、蛇が鎌首を持ち上げたように見えるのがおしべ。
   参考: 尾瀬2 燧ヶ岳

石川啄木

 

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

 


 函館・小樽・釧路と啄木の足跡を見た。
 函館の立待岬に行く途中に啄木の墓があった。この「一握の砂」の冒頭の歌が刻まれている。この歌集の前にも多くの傑作があるが、それは古い歌として全てを捨て、この一首だけを残した。
 啄木の歌は行替えや区切りが独特であり、以下の歌はそれを無視していることをおことわりしておく。仮名遣いが違っているかも知れない。


 

さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入にき

 

小奴といひし女のやはらかき耳朶なども忘れがたかり

 

北の海鯨追ふ子等大いなる流氷来るを見ては喜ぶ

 

神のごと遠く姿をあらはせる阿寒の山の雪のあけぼの

 


この四首は釧路での作である。
小奴は啄木の文章力を高く評価したことで知られている。


 

不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心

 

己が名をほのかに呼びて涙せし 十四の春にかえるすべなし   

 

浪淘沙ながくも聲をふるはせて うたふがごとき旅なりしかな

 


上の2首はわたしが中学生の時に覚えた歌
浪淘沙…は、李清照を読んで気になった歌。浪淘沙は詞牌。詞および詞牌についての説明は拙文李清照 −詞后の哀しみ−を参照してください。
明治時代に浪淘沙が日本で歌われていたのであろうか。

 

なお、拙文を読んだ方が、紹介してくれた歌。


 

かなしくも 夜明くる間では残りゐぬ 息きれし児の肌のぬくもり

 

やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

 

ふるさとの山にむかいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな

 

頬(ほ)につたふなみだのごはず 一握の砂を示しし人をわすれず

 

たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて三歩あゆまず

 


「三歩あゆめず」と覚えていたが、あゆまずだった。
 ある詩人の話。世界の詩人が集まったとき、会の終わりに、それぞれの国の短い詩を紹介することになった。たわむれに…を紹介して英語で意味を説明したら、集まった人たちが涙を流して頷いていたという。
 それにしても啄木は若くして世を去りました。
 享年27。年齢26歳でした。
参考 北海道12 釧路・石川啄木

山里を想う

 

ただ一人降りたる我に声かかる 山里駅員「お仕事ですか」

 

あの山が女体山だと老駅員 三点式の雲の輝き

 

砂糖黍畑にありて食む牛の角の太さは我が腕ほどか

 

釈迦頭の実をもぎながら恋の歌うたう子ひとり今日十二歳

 

釈迦頭を籠に入れつつうたう子の「卑南情歌」牛も聞き入る

 

李光輝中村輝夫スニヨンの生まれし邦ぞ冬稲を刈る

 

未熟なる非想非非想釈迦頭のいつか悟りて市に並ばん

 

李光輝中村輝夫スニヨンの
生まれし邦の初春に
稲はふたたび稔りけり
三点式の雲薄き
女体山のふもとでは
少女は声を張り上げて
巨大な牛の傍らで
「卑南情歌」歌いつつ
我に手を振りほほえめり
勧める五寸の砂糖黍
笑いと日本語飛びかいて
瑞穂の国の客は我のみ

 


山里(sanli)は台東から16キロほどの村である。
釈迦頭は台湾の果物でバンレイシ(番茘枝)とも。原産地は南米。
スニヨンはモロタイ島で32年ぶりに見つかった元日本兵(軍属だったかも知れない)。見つかったときは大騒ぎであった。
スニヨンの故郷の都歴村は女体山(都蘭山)の向こう側である。
参考  山里

藤あや子

 

あや子見るコマ劇場の「と列40」 五十八度の恋のかなしさ

 

コマ劇場「と列41」見るあや子 二度目の恋の切なさを視る

 

白糸の恋を語りて飲む酒は 赤の辛口二本で足りず

 

天狗舞 飲みつつ想う金沢の兼六の園恋は兼ねぬか

 

幻聴におびえる子こそかなしけれ あや子の声を我は楽しむ

 

寝ぬる夜半あや子の声は高く張り 灯りを点けて静寂を知る

 

白糸のあやなすあやをあやつりて あや子の心さてもあやしき

 

白糸の悲しさ深し「あやちゃんに戻る」といえど我は戻れず

 

東京のうしろ姿のしあわせを肩を落として見入る白糸

 

白雪や 不二の心は地の果ての阿修羅の叫び滝の白糸

 

 

黄昏 ワイングラスの天狗舞 藤あや子に酔う男ありけり

 

敦煌の道はインドに連なりて 故人無からん藤あや子想う

 


 わたしが最初に見た藤あや子のショーは、1997年5月18日、コマ劇場における「瀧の白糸」である。土曜の夜に友人と見に行き、そのあと二人で飲んで帰った。その夜、一気にこの駄歌八首を作った。翌日二首。
 黄昏と敦煌の二首は後に作ったものである。
 個人的な思い入れがあって、判りにくいかも知れない。
「と列40」 は席の番号。五十八度は公演回数。その日に飲んだのはワインだった。ハーフサイズかな。天狗舞は金沢の近く白山市の銘酒。
 ショーの前半は劇「瀧の白糸」、後半は歌謡ショー。「白糸からいつものあやちゃんに戻って…」が後半の挨拶。
 このころ、イラクで幻聴におびえる子どものニュースがあった。
 「黄昏…」は、テレビを見ていたときの作。自分では一番気に入っている(^。^))。

地下鉄サリン事件

 

旅の駅三月二十日の号外は 常の日ならば我の名もある

 

ザック背に号外見入る名古屋駅 三月二十日命を拾う

 


 3月20日には想い出がある。ある年、月曜日に有給休暇をとって、名古屋に旅行した。翌日が春分の日で四連休であった。この年、わたしが仕事を休んだたった一日がこの日だ。
 犬山を見学し、名古屋駅まで戻ると人だかりがしていた。号外である。その日の朝、あの地下鉄サリン事件が起こったのだ。
 あの駅をあの時間、わたしは毎日通っていた。有給休暇をとったため命拾いをしたようなものだ。
 細かく見れば、乗る電車は一電車違っていて北千住始発ではないので、事件に遭うことはなかったであろう。それでもゾッとした。歌にも余韻がない。 

彼岸花

 

人の声途絶えて歩く山里の彼岸の野辺に赤い花咲く

 


穂高さんよりいただいた
  ふり向けば静かな里に美しき今咲き誇る彼岸花あり
の返歌です。

 

雑俳

 

蔦の七沼

 

 鏡沼ヤンマの羽根の動かざる

 


奥入瀬渓谷を歩き青森に抜けた。その途中蔦温泉で途中下車、七沼を見学。
参考  03年青森の旅 十和田湖


 

風鈴仏桑華

 

 動かざる風鈴の音よ母の声

 



ふうりんぶっそうげ
ブッソウゲつまりハイビスカスの原種という。
こう見るととてもハイビスカスには見えないが、真上から見ると、何となく似ている。  


 

真田の里  

 

 いくさ場はいずこの軍ぞ月を見る

 

 オコジョさんが真田の郷を案内していました。城跡が続いていましたが、その中で観月亭という四阿が古戦場を見下ろしていました。
 俳句には決めごとが多く、これで俳句と認められるかどうか判りません。


ジョウビタキ(尉鶲)

 

 名を知れば尉の白髪輝けり

 


この写真はヤマガラさんから頂きました。ジョウビタキの雄です。
わたしの写真をジョウビタキだと教えて頂いた時の句です。


小鳥

 

 初霜や障子の外の忍ぶ影

 


ムクドリかヒヨドリでしょう。よく窓の外を飛んでいるのを見かけます。
雀に障子に穴を開けられたことも(^。^) 


擬製

 

アイゼンの爪の跡消え風白し 思い出せない山のいくつか

 

秋津島に生命の粒を撒きながら 泥遊びする神のてのひら

 

雪深き燕山荘の五月の夜 アルプスホルンとストーブの声

 

      (かぜのてのひらに擬す)

 

さりげない万智ちゃんの歌擬製して あらためて知る「転」の鋭さ

 


 わたしが短歌を作るきっかけは、俵万智さんの「サラダ記念日」を読んだことである。これなら、文語を学ばなくてもよいのなら、わたしも作れそうだ。
 そして「かぜのてのひら」を読んだとき、その真似をしたのがこの三首である。
 擬製してみて、俵万智さんは、起承転結の転が、いかに鋭いかを知った。そして三十一文字の「魔法の杖」を使えば、下手ながら短歌らしきものができることも知った。ここに駄作を披露する次第である。
08.3.14

 

 

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